大河原 良雄 [おおかわら よしお]
終戦の時、海軍主計将校だった私は、ラバウルで豪州軍によって武装解除され、豪州軍による戦争裁判の日本側弁護士団連絡将校をつとめ、47年4月になって帰国しました。今でも脳裏には、復員して目にした焦土・東京の惨澹たる姿がよみがえります。そして、敗戦のなかにも希望を抱いて前進し、汗を流してきた占領下の日本人と日本社会の姿が浮かんで来ます。
その時代に食料や衣料品、医薬品などを緊急放出し、飢餓線上にあった日本人の生活を救い、復興と民主化に向けてのさまざまな支援や改革の道を講じたのは、ほかならぬアメリカ政府であり、アメリカの国民でした。 国際社会から脱落し、孤立した日本が、のちに独立国として再び世界の仲間入りをしていくことができたのも、アメリカの強い力添えがあってはじめて可能だったことです。
21世紀を目前にした今日、自国の再建に当たって日本がアメリカから受けたものの大きさをあらためて想起せざるを得ません。私たちは、日本の復興に際して差しのべられたアメリカ政府とアメリカ国民のヒューマニズムと善意について、思いを新たにしたいものと考えます。
たとえ、その背景に当時の世界情勢が影響していたにもせよ、米国の国益を守るためのものであったにせよ、また、その結果に克服すべき要素が多々残されているにせよ、日本はそのお陰で異例ともいうべき速やかな復興と発展へのコースを選択することができたのです。
私は復員後、出征前に籍のあった外務省に戻り、サンフランシスコ平和条約が締結された1951年には、ガリオア資金によりアメリカに留学しました。初めてのアメリカ生活で私が感じたことは、その大きさ、豊かさ、強さであり、アメリカ人の心の広さでした。私が接した限り、アメリカ人は戦争で打ち負かした相手国の学生を温かく受け入れ、その若者たちに自分が敗戦国の人間であるという惨めな思いをさせられることがありませんでした。
占領時代に日本に勤務したことのある軍関係者やシビリアンとその家族たちは、アメリカの各地で生活しており、民主主義の洗礼を受け、復興を信じながら額に汗していた勤勉な日本人の印象と、日本の美しい自然に多くの人が好意を抱いていたように思われます。このような草の根の人達の日本の良い思い出は、アメリカ人の対日感情に温かいものを注いでいたといえます。
その後、私はアメリカとの縁が深まり、60年代そして70年代初めの2度にわたる在米大使館勤務の後、アメリカ局長に就任し、80年から85年まで駐米大使を務めました。その間、「ワシントンだけがアメリカではない」と教えられ、アメリカ50州をくまなく巡って、講演をして歩き、アメリカの懐の深さをしみじみと感じさせられました。
(月刊「Keidanren」1999年10月号及び日本商工会議所月刊誌「石垣」2000年5月号より抜粋)
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