「A50」着眼の原点
飯久保 廣嗣
A50事業実行委員会幹事会委員長
〔いいくぼ ひろつぐ〕
・1957年米国デポー大学卒業
・米国AFIA東京支社を経て、株式会社JEC(現、デシジョンシステム)設立、代表取締役社長
・米国デポー大学人文学名誉博士、客員教授、理事
・米国インディアナ州 在日名誉大使
・著書「外人コンプレックス」「思考の生産性」(いずれも ダイヤモンド社)など多数
1.アメリカに負うところ大な戦後日本の繁栄
1989年にイギリスのサッチャ−首相(当時)が、経済同友会主催の昼食会
で、何百人という日本の経営者を前に次のような演説をした。
「資源のない小さな日本が現在のような発展を遂げられたのは、一体何のおかげ
でしょうか。もちろん日本人の勤勉さということもあるでしょう。しかし、なん
といっても、それはアメリカの占領対策の寛大さによるものではなかったでしょ
うか」
私はその場にいなかったが、友人に聞くと満場シ−ンと静まり返ったという。そこで、まず思い出したのがアメリカからの食糧援助であった。調べてみると
当時東京で1日6人もの餓死者が出ていた。そして敗戦後僅か5ヶ月を経た昭和21年1月26日には早くも食糧援助第1号として1千トンの小麦粉が東京湾に到着した。
食糧援助や人道的な支援以外にもアメリカの対日戦後処理がたとえアメリカの世界戦略にそったものであったにせよ、日本にとっては非常に幸いした部分がたくさんある。
戦後賠償を要求しなかったこと、日本が分割占領されなかったこと、日本人捕虜に対して強制労働や抑留を強いなかったこと、占領軍による残虐行為もほとんどなかったこと、電力の再編成に協力し、産業の復興の基盤をつくったこと、経済ミッションの導入等によって日本産業の近代化を促進したこと、日本企業に対して巨大で自由な市場を提供してくれたことなど枚挙にいとまがない。
私は松下幸之助氏が30年近くも前に城山三郎氏との対談で次のように言って
いるのを知って驚くと同時にさすがだと感心した。
「あの大戦争をやって日本は世界の人に対してずいぶん迷惑をかけた。その
日本が完全に負けて、何の罰も受けていない。本来なら必ず領地を取られるとか
罰金を取られるけれども、日本は戦った相手に対して何も返済していない。逆に
ものをもろうてます。立ち上がるための資金まで貸してもろうたり、実に安易に
この30年間を暮らしてきた。そこに政治家といわず、国民、また現在の指導者
階層に根本的な甘えがあった。それが、今日の非能率とかムダを生んでいるや
ないか。つまり30年間のツケがいっぺんにまわってきたという感じがするのです。お互いに血の一滴も流さなしょうがない」
(『ビジネス・エリ−トの条件』より)
2.「A50」運動のスタ−ト
私は歴史の専門家ではないが、戦後の日本に対するアメリカの対応を自分なり
に正当に評価しようと努めた。そしてこれらを日本がアメリカから受けた恩義と
感ずるようになっていった。
それは個人的にもアメリカのお世話になっていることが一部影響している。私はインディアナ州のデポ−大学を卒業した。今日母校の理事をつとめている
等、アメリカには知己も多い。恩義には報いなければ礼儀に欠けるのではないか。大げさにいうとそれを果たすまでは日本の戦後は終わらないのではないかと
思いつめるようになっていった。しかし、一人では何をして良いか見当がつかな
かった。
1993年7月7日、私に一大決心を促す小さな出来事があった。七夕の夜
親しい友人を十人ほど招待して、自宅で小さなパ−ティを開いた。米国人も何人
かいて、日米関係の話題から、最近の日米の自動車の話になった。
米国のビック3は、大胆なリストラと発想の転換の末に、その時既に性能でも
価格でも日本車を凌ぐ、とさえ言われていた。私も実際に米国でレンタカ−に乗って、それを実感していた。ところが、「いや、私は今でもスバルに乗っていますよ。」といったのは、十年来の友人であるロバ−ト・オア氏だった。彼は92年まで、米国のシンガポ−ル大使を勤めたが、その前はインディアナ州知事だった。
「私がインディアナ州知事時代に、最も深刻な問題は失業対策だった。その時富士重工が工場をつくってくれて、多くの雇用を確保してくれた。その時のことは、十年経った今でも忘れない。本当に感謝の気持ちでいっぱいだった。だから以後ずっと、スバルに乗っている」
私はこの言葉にショックを受け、感動した。オア氏が恩義を忘れぬ人であるこ
と、それも個人対個人を越えた国際的なレベルでの恩義を重んじていることに
対して、である。
この時以来、私はアメリカの戦後処理・援助・協力に対する日本人の感謝の
気持ちを形のあるもので表明する運動を1人から始める決心をした。会社の
ビルに小さな事務局を確保し、アルバイトを雇い、友人・知人を頼り活動を始めた。
他人に説明するにはコンセプトを明確にし、それを的確に表わすネ−ミングが
重要である。米国の友人との議論で「A50」プロジェクトにしようということになった。Aはアプリシエイション(感謝)とアメリカを、50は戦後50年とアメリカの50州を意味するものとした。
簡単な説明資料をつくり説明に回ったが、以前からお世話になっている富士ゼロックス会長の小林陽太郎氏に御相談すると「米国に感謝することは大切で
あるが、過去を振り返って一方的に感謝するだけでは賛成できない。日米関係を今後世界の中で意味のあるものにしていくことが重要である」という御指摘を受
け、納得して直ちに50は日米関係の戦後と今後の50年を意味するものとコン
セプトを拡大した。
3.アメリカへの「感謝」について
「A50」プロジェクトを進めていくうえで、私が一番苦労したのは、この時点で50年前のアメリカの戦後処理や援助・協力に対して経済的負担をともなう感謝表明が必要なのかということだった。 世の中にはアメリカが嫌いな人もいる。戦後の対日政策が、米ソの冷戦構造の中でアメリカの利益が最優先されて決定されたという背景もある。日米の貿易交渉でアメリカの強引な押しつけに反感を感じている人もいる。
これらを政治的にどう評価するかはともかく、アメリカの行った占領政策は通常の先勝国が敗戦国に対してとるであろう政策とは、ひと味もふた味も違っていたことだけは確かである。そしてアメリカにとっての利益とともに日本に対する支援、好意、友情の精神も含まれていたと私は信ずる。それらが敗戦によって荒廃し切っていた日本を再生させ、世界第2位の経済大国へと発展する基礎と なったことは、事実として受け入れなければならない。
私は同盟国として同じ敗戦を迎えたドイツの対応を調べてみた。ドイツ(当時
は西ドイツ)も、マ−シャルプランによってアメリカの援助を受けている。マ−
シャルプランはドイツだけでなく、全西側ヨ−ロッパが対象であった。しかし、それにもかかわらず、西ドイツは敗戦25周年を期して、マ−シャルプランの恩恵にあずかったヨ−ロッパ諸国を代表して1970年、当時のブラント首相が「ドイツ・マ−シャル・ファンド(The
German Marshall Fund of the United States)」の創設を発表し、72年に設立している。
このことを知った私は1994年10月ワシントンにいる友人A.E.クラウザ−氏に当時の詳しいいきさつを取材してくれるように依頼した。同時に彼の友人とワシントンのコスモスクラブで昼食会を持ち意見交換をした。 N.セイヤ−教授やJ.ライリ−元中国インド大使も出席した。私も財団理事のピ−タ−・ウエイズ氏に本部で面談し、ブラント首相は大蔵大臣のアレック・マルクに
ドイツが米国に対して何らかの感謝の気持ちを表わす方法について検討させ、
その結果ハ−バ−ド大学のゴ−ルドマン欧州研究所長らによってこの提案がブラントになされたことを知ったのある。
私はこのことを知り、ドイツと日本の国としての品格の差を感じてショックを受けた。個人や会社が恩義を受けた時にはそれに報いる努力をするのが当然であるが、国や国民のレベルでも恩義に報いることは、国際的な礼儀となっていると私は思っている。
1999年2月にはベルリンの空輸感謝50周年でベルリン市民がクリントン
大統領(当時)を招いて感謝の式典を開催している。
リトアニアの領事館で6千人のユダヤ人に首を覚悟でビザの発行をした外交官
故杉原千畝氏のことは、ご存知の方も多い。1985年に杉原氏はイスラエル政府から日本人として初めて「諸国民の中の正義の人賞(ヤド・バシエム賞)」を受賞し、エルサレムの岡に顕彰碑が建てられ、盛大にセレモニ−が行われた。
またアジアでも中国政府代表が訪日の折、日中国交回復に尽力した田中角栄 元首相を表敬訪問して日本人を驚かせた。その時彼は政治スキャンダルで失脚し、刑事責任を問われている時だったが、彼らは「井戸を掘った人のことは忘れな い」といって恩義に報いることを優先したのである。
以上のような例はいろいろあるのであろうが、これらの行為は国あるいは国民のデグニティ、尊厳、威信の問題であろうと私は考えている。日本には「のどもと過ぎれば熱さ忘れる」、「寝た子は起こすな」という言葉がある一方、「礼節を知る民である」との自負もある。私は少なくとも戦後アメリカから受けた恩義に対して「恩知らず」とのそしりを世界から受けないよう恩義の事実を明らかにし、礼節をもって対応するのが、戦後の荒廃期を知るわれわれ世代の責務ではないかと思っている。
4.「A50」構想に対するアメリカ人の反応と助言
「A50」の構想が、私なりにかなり具体的になってきた段階で、アメリカの各層の人達が、「A50」の構想に、どのように反応するかを直に知るために 1994年10月に2週間アメリカ各地(ニュ−ヨ−ク、ワシントン、シカゴ、 インディアナポリス、サンフランシスコ)をかけ回り、25名にインタビュ−をした。
アレンジは各地の親しい友人に世話になったが、クリントン政権のアドバイ ザ−、市長、大学教授、シンクタンクの役員、日米に関する各協会の役員、企業経営者、新聞記者、役人、弁護士、学生等、多様な顔ぶれであった。 その中から感動的だった部分をいくつか紹介させていただく。
(1)インディアナ大学のあるブル−ミントン市の女性市長に、A50を説明した 時、彼女は「もし、第一次大戦後ドイツからA50のような提案がなされ、 それがある成果を生んでいたら、さらにアメリカがサポ−トしていたら、 第2次世界大戦は避けられていたかも知れない」と言ってくれた。また彼女は、「日本はアメリカの支援を受けたと言うが、それは戦後の食糧援助、 防衛の協力等のことを言っているのではないか。アメリカが本当に考えたのは民主主義、自由、困っている人がいたら助けると言った思想・理念だった。」と言った。彼女はギフト オブ アイディアと言う言葉を使った。
(2)インデアナポリスではインデイアナ州米日協会のはからいで、いろいろな職業の市民5〜6人に集まっていただき、「A50」について説明する機会が与えられた。最初は現在の日米関係を象徴するような非友好的な態度であったが、私の話が終わる頃には、固かった表情は一変し、非常になごやかな雰囲気に変わっていった。彼らは、「日本から来る人の話はほとんどが言い訳であったり、一方的な説明で対話が欠けていたりで、本当にうんざりしていたが、あなたの提案は一緒に検討する価値がある」と言ってくれた。
(3) 最後に反日的論調のあるロサンンジェルスタイムスの記者の貴重な提言を 紹介したい。彼は州で自由にプロジェクトを選ぶのもよいが、セントラル テ−マを決めて、それと何らかのつながりのある個々のプロジェクトを選定 してもらうようにした方が、よりインパクトがあると主張した。そして彼の 挙げたセントラルテ−マの例は以下のようなものであった。
@国境に橋をかける(偏見、一方的情報、相手に対する無知を取り除く)
A世界の安定のために一緒に汗を流す
B西洋と東洋とが新しいディメンションで手を結ぶ
その他の多くの人々の反応を詳細に紹介する紙幅はないが、以下に 「A50」に対する感想を箇条書きで列挙しておく。
・「A50」のようなプロジェクトを日本のイニシャティブで展開することは、多くのアメリカ人に歓迎されよう。特に財界の重要なメンバ−の中には賛同する人が多いであろう。
・日米の協力は50年前に行われたミズリ−号の降伏調印のインクが乾かな いうちに始まっていた。
・自分達、若者にとっては「A50」の提案は予期しないことではあったが 喜ばしい驚きである。
・アメリカでは最近ニュ−スメディアが日米対立の構図しか報道していない ので、アメリカの若者に、戦後50年の日米関係の歴史を正しく認識させ るのに「A50」は非常に有効である。
・「A50」は日本人がアメリカに謝意を表わすものだが、それは結果とし て日本及び日本人のためにもなると思う。つまり日本及び日本人の威厳が 高まり、人々に尊敬されるようになるであろう。
以上のように「A50」に対する感想は、日本及び日本人に対して批判的と 言われている人達も含めて、総じて歓迎的であり、少なくとも好意的であった。
5.「A50」本格始動へ
私は当初「A50」の最初の事業を50回目の終戦記念日つまり1995年8月15日に開きたいと考えており、プロジェクトが遅々として進まないことにあせりを感じていた。そして自分が大変なことに手を染めてしまったことに怖れすら覚えた。
絶対的な時間不足は明らかになり、私はアメリカからの最初の食糧援助を受け
た日から丁度50年後の1996年1月26日付でアメリカの大統領、上下院
議員および各州の知事にお礼の手紙を出すことで、この運動を終わらせようと
覚悟を決めた。
その時、相談に行った故島内敏郎(元ノルウェ−大使)からサンフランシスコ平和条約50周年記念日(2001年9月8日)を目標にじっくり取り組んではどうかとのアドバイスをいただいた。ここまでが「A50」前史である。
1994年以降は、数人の有志による熱心な議論を経て、44回に及ぶ準備会 を開き、その中で戦後日本の復興に携わり、国際社会に活躍してきた経済人、 政治家、外交官、言論人など各方面の方々のご賛同を得た。その結果、1951 年のサンフランシスコ平和条約締結から半世紀の2001年を目標として、新し いミレニアムを開くにふさわしい、今後の日米間の友好信頼関係増進に資する 「A50」活動を展開することとなった。
1995年8月第一世話人会では大河原良雄元駐米大使(現世界平和研究所 理事長)が世話人会代表に就任した。
1998年5月の発起人会を経て、同9月の第一回実行委員会では大河原良雄
発起人代表を実行委員会会長に選出し、中山太郎日米議員友好連盟会長、豊田
章一郎経団連名誉会長、小林陽太郎経済同友会代表幹事その他の有力メンバ−が
同委員会を構成することになった。
本格始動後、私は大河原氏をはじめ多くの方々の御指導のもと事務局的な仕事を担当してきたが、私にとって印象深かったことをいくつか紹介させていただく。
(1)1945年9月2日、ミズ−リ号における日本降伏文書調印式を見届けた 日米2人の要人から「A50」支持を取りつけた。一人は私の大学の先輩で 元シカゴ証券取引所会長をしていたア−ウィン・シュルツである。彼は一 水兵として艦上にいた。私がマッカ−サ−の短い演説文を見せると一瞬目を うるませ、「A50」は大変有意義なことだと言ってくれた。 もう一人は宮沢元総理で、生き証人は私だけになってしまったと感慨深く おっしゃった。
(2)1997年に「A50」へのアメリカの知人の反応を伺うために手紙を 送り10人近い人から支持・歓迎の返事をいただいた。その中にはマンス フィ−ルド(元駐日大使)、アマコスト(元駐日大使)、ロス(上院議員)、 クエ−ル(元副大統領)、エズラ・ボ−ケル(ハ−バ−ド大教授)などが 含まれている。
(3)1998年に故竹下元総理に「A50」の説明をする機会を与えられ、竹下 氏は即座にアメリカに感謝の気持を表明することはとても大事なことだから 力を貸すとおっしゃっていただいた。お元気でおられたら「A50」の強力 な支えとなってくださったことと思い残念である。
「A50」の戦後の50年の方は間もなく終わろうとしているが、将来に向けての日米関係50年はこれからである。若い人達に伝統や文化を踏まえた新しい「相互信頼関係」の構築を願っている。例外はあっても、国際的な視野が必要なのは米国側であるといっても過言ではないと思う。 (2001年3月31日)
連絡先:A50事業関連連絡事務所 (株)デシジョンシステム気付 東京都港区赤坂6-8-9氷川坂ビル Tel.03-3589-0321 |