一宿一飯の恩義というけれど、フルブライトで留学したカンサス大学では、ベータ・シータ・パイと呼ぶ仲間の学生達に寮で朝食と夕食を毎日御馳走になった。まるで食客だ。感謝祭の休みには家庭に招かれ、ウズラ猟を楽しみ、その料理に舌鼓を打った。
最初のセメスタ(前期)は、成績が悪いと日本に戻すといわれていたので、そこそこに勉強したが、それが過ぎてからは遊ぶ方に専念した。ベータ・シ−タ・パイの連中と週末に郊外へ出かけ、ビール早飲み大会をやり、挙句、川に飛び込むなどというメチャクチャなことをやったりした。楽しい想い出は尽きない。
頃は1959年から60年にかけての日米関係の節目の時である。留学を終えてワシントンで開かれた海外留学生向けの「現代アメリカ政治」の講座に参加したとき、アメリカではニクソンとケネディの選挙キャンペーンが行なわれており、日本からは60年安保の騒動で樺美智子さんが亡くなった旨のニュースが届いた。後に大統領になったジョン・F・ケネディ上院議員にもこのとき会わせてもらった。
この後、サンフランシスコでバンク・オブ・アメリカのトレーニーになるまでの約1ヶ月間、ニューヨークを皮切りに、グレイハウンド(バス)でボストン、クリーヴランド、デトロイト、シカゴと廻った。
シカゴでは、旅の終わりにと飲み食いに羽根をのばしてしまい、カンサスへ戻るフトコロには数ドルしか残らなかった。カンサスからサンフランシスコは汽車で40時間、アメリカの広大さを身をもって体験したものだ。
抽象的なアメリカ人像ではなく、ホンモノを自分の目で見る機会が与えられたことで、自分の今日があるし、アメリカの善意に感謝する気持ちは人後に落ちない。キャラバンではどこかまだ知らない都市を訪ねることができれば幸いだ。
1958年にブランダイス大学から奨学金を戴いて渡米しました。アイゼンハウアー大統領時代の保守的で豊かなアメリカでした。大学では、当時マサチュセッツ州上院議員だったジョン・F・ケネディやジョージ・ケナンにお会いしたり、指揮者のバーンシュタインや、画家のシャガールも講師陣に加わり、キャンパスはとても知的な雰囲気に満ちていました。
数学者の広中平祐と結婚してからも、ボストン周辺に住んで大学に通ったりしながら、アメリカ社会が公民権運動やベトナム戦争などで揺さぶられ、変化するさまを見続けて参りました。アメリカは国の成り立ちも人種の構成も日本とは違いますが、家庭、コミュニティ、雇用といったことを大切にするのは人間皆同じです。
約20年のアメリカ滞在を経て日本に戻り、1986年政治の世界に入りました。当時の日本は経済成長を謳歌し、バブル景気にわいていましたが、その一本調子の経済至上主義と輸出攻勢には危惧を感じておりました。他国の産業についても配慮するという地球規模の思いやりが必要だということです。こういう考え方も、アメリカでの学業、生活を通じて私が体得したものです。
初めてパリを訪れたのは1962年の1月。歴史と伝統のある国の首都はシックで、コレクションのシーズンだったし、たいへん勉強になりました。でも、少々敷居が高い感じでした。
同じ年、ニューヨークにも行きました。こちらは歴史が浅い代わりに、新しいものが生まれる国です。戦後の日本に、アメリカの文化と生活とがどんなに大きな影響を与えたかは誰にも異論のないところでしょう。イエス、ノウがはっきりしているのと同時におおらかさがありました。新しい仕事はパリでするより、ニューヨークでと決めて、2年間改めて勉強しました。作品は、森英恵のアイデンティティと国際性をテーマにデザインしました。日本の商品は「安くて粗悪」というイメージを払拭しようとも思いました。
1965年、ニューヨークでの最初のショウは大成功でした。アメリカは「違い」を認める国です。それをわかりやすく呈示したのがよかったのでしょう。お客として出席していたニーマン・マーカスのスタンレー・マーカス氏が楽屋を訪れ、夫人のためにオーダーして帰りました。日本人とは体型の異なる欧米人向けに通用するか否かのテストだったのだと思います。これにパスすると次のシーズンからはバイヤーを送り込んできました。そこはファッションもビジネスの国です。とんとん拍子に世界が拓けました。百貨店の上階は特選品しか扱わないのですが、そこに私の作品が並ぶようになりました。
アメリカはカテゴリーの国でもあり、ハナヱ・モリは、蝶と華麗なイヴニングドレスをデザインするデザイナーとされました。後に大統領夫人となったレーガン夫人もお得意のひとりで、来日されると東京のスタジオに見えたものです。パリへの出店はその後で、それもお客の一人であるグレース・ケリーさんのお薦めでした。
アメリカは私にパワーを与えてくれた国です。
この4月、横浜新港ふ頭内に一つの記念碑が立った。市内の経済団体を中心とした「ララの功績を後世に残す会」が募金活動を行ない実現したものだ。
ララとは、戦後、アジア地区救援のために在米邦人が全米の宗教法人などに働きかけて結成したアメリカ政府公認団体の略称で、そこから送られた食糧や医薬品などは 「ララ物資」 と呼ばれた。
ララ物資は1946年11月から52年6月まで数次に亘って日本の各地に送られたが、その第一船がここ横浜に入港した。
1949年に昭和天皇とともに訪れた香淳皇后が詠まれた「ララの品つまれたる見てとつ国のあつき心に涙こほしつ」ほか一首が碑には刻まれている。 また碑文には、次のように記されている。
第2次世界大戦後の多くの日本人を救った「ララ」物資
第2次世界大戦直後の混乱期、日本は衣食住すべてに不自由していた。 こうした中、全米の各宗教団体を中心とする海外 事業運営篤志団アメリカ協会は、特に日本をはじめアジア諸国の 救済事業を行うために「アジア救済公認団体」を設置し、ミルク類、 穀物、缶詰類、油類等の食料をはじめ、衣類、医薬品、靴、石鹸、 裁縫材料などの消費物質のほか、乳牛や山羊などを送り、多くの 日本人を救った。 この物資の送り出しにあたっては、当時の在米邦人組織の方々 の多大なご尽力もあったと伝えられる。 この救済物資は、「アジア救済公認団体」の英名"Licensed Agencies for Relief in Asia"の頭文字から「ララ」物資と 呼ばれ、昭和21年11月30日に「ララ」物資を積んだ第1船 ハワード・スタンズベリー号が、ここ横浜新港埠頭に着岸し、以後昭和27年6月までの6年間送られ続けた。 記念碑の香淳皇后御歌は、昭和24年10月19日に昭和天皇と香淳皇后が横浜の「ララ」倉庫に行幸啓になられた時に詠まれた ものである。 「ララ」物資を送って頂いた方々への深い感謝と、当時ご尽力 された方々のご功績を後世に永く残すため、多くの方々からの募金によりこの記念碑を建立する。 平成13年4月5日 |
感謝の気持ちを語り継ごうという記念碑である。
A50のほかにもこうした草の根の活動があることを知ると心強い。
連絡先:A50事業関連連絡事務所 (株)デシジョンシステム気付 東京都港区赤坂6-8-9氷川坂ビル Tel.03-3589-0321 |