昭和27年か28年の頃、私は小学校の2年か3年でしたが、後楽園球場で来日したアメリカのプロ野球チームと日本のチームとの試合を見に行きました。そして生まれて初めてコカコーラを飲んだのです。「なんでこんな薬みたいなものをアメリカ人はおいしそうに飲むのだろうか」と不思議に思ったものです。そのアメリカへ、大学生のとき1年間留学しました。コネチカット州のウェスリアン大学という小さな大学でしたが、3、4年前に兄が留学したときのホスト・ファミリーを訪ね、アメリカ人のオープンな人格と優しさに触れました。これでアメリカが好きになり、同時に日本を考える契機になったのです。
通産省に入って、昭和54年からニューヨークのジェトロに派遣されてからは、自動車の輸出制限などの問題で、裏方として全米を飛びまわりました。足を踏み入れなかった州は数少ないと思います。そしてアメリカ社会のバラエティの豊かさを知りました。アメリカの魅力です。他人と違うことを嫌う日本人と異なり、アメリカ人は他人との違いを認める人生を生きています。お互いのいい面、悪い面を考えて、A50が過去の50年の積み重ねの上に、新たな50年を築き、A100として成功すればいいと考えています。
『東商新聞』に出たA50事業への募金の呼びかけを読んで、すぐ応じることにしました。終戦直後、GHQの仕事を通じて多くのアメリカ人に接しましたが、その懐の深さに感銘していたからです。
GHQでは、全国の米軍基地向けの映画を制作していましたが、私がいた大泉スタジオ(東映)にも仕事が来て、私の仕事ぶりが気に入られ、GHQ入りとなりました。米軍人向けの交通安全映画や朝鮮事変のニュース映画の製作・編集、イタリア映画の字幕入れなど忙しい毎日でした。
私が驚き、感謝しているのは、私への待遇です。日本人スタッフの最高位で、例のアフリカ戦線でロンメルを敗ったウォ−カ−中将直々のレターオーダー(身分証)を支給されました。黄門様の印籠のようなもので、基地内はもとより、進駐軍専用車でも、食堂でもこれさえあればOK。駅に着けば、下士官がハイヤーで迎えてくれました。思えば私は敗戦国の一技師です。能力と才能を重んじるアメリカ人の態度を見て、アメリカが世界一になるはずだと思いました。
高校時代、AFSで1年間アメリカに学んで、楽しかったこと、びっくりしたこと、いろいろありましたが、強く印象に残ったのは、コミュニケーションの姿勢です。日本人とは違うなということを理屈でなく感じました。日本人は、共有する文化が多く、いわなくても通じることが多いのですが、アメリカは異民族が様々な文化を持って寄り集まっていますから、言語コミュニケーションへの依存度が高いのです。当時はこのように分析的には考えませんでしたから、アメリカ人のエネルギッシュな発言に圧倒されました。そこまで言わなくてもわかるじゃないかと。自分のこともそんなに言わなくてもわかってほしいと最初は思いました。しかし、アメリカという国と国民性を理解してみると、逆にコミュニケーションを楽しめるようになりました。これが私が同時通訳の仕事を初めとして異文化コミュニケーションに取り組むきっかけになったといっていいでしょう。
ところで、これからの日本ですが、アメリカへの情報発信の量が圧倒的に不足しています。日本を理解してもらう努力の不足です。A50のキャラバンはその意味で意義のある事業だと思います。私自身も参加したいと思っておりましたが、異文化コミュニケーション研究科(仮称)を立教の新大学院として設置認可を申請する予定で、その関連の仕事とキャラバンの期間が重なるので参加できそうになく、残念です。
キャラバンの事業は、A50としての単発でなく、これを出発点として恒常的に行なう草の根の年中行事として定着させてほしいとも思います。
アメリカには、私が高校生のときに全身に受けた「底知れぬ善意」があります。いま日本のマンガなどの大衆文化に興味を持つアメリカの若者も多くなりました。今は、そういう若者を招いて日本人の善意を示すいい機会です。奨学金制度もその意味で役立ててほしいと願います。
○…8月1日の東京ロータリークラブの例会で、大河原良雄A50実行委員会会長が日米関係とA50に関して、卓話を行なうことが決まりました。
連絡先:A50事業関連連絡事務所 (株)デシジョンシステム気付 東京都港区赤坂6-8-9氷川坂ビル Tel.03-3589-0321 |