先日、宮沢喜一さんに「君とボクしか証人がいなくなりましたなあ」といわれました。50年前の平和条約締結の現場に居合せたということです。私の場合は現地で下働きをしていただけなのですが…。
当時、私はマーク・ホプキンズ・ホテルで修行しながらシティ・カレッジ・オブ・サンフランシスコのホテル・レストラン科に通っていました。
1951年の夏休みをヨセミテ公園で働いて8月末にS.F.に戻り、「これからニューヨークのコーネル大学で学びます。お世話になりました。」とオーナーに挨拶に行ったところ、「ちょっと待て」と引き留められました。
「これから日本の平和条約締結のための全権団がやってきて、ここに滞在する。日本語ができるのは、お前だけだ。その間、残ってくれ。」というわけです。 ホテルでは全権団用に、8・9階のフロアをブロック。大きいスイートの家具を出してダイニング・ルームにしました。全権団が着いたのは9月1日。宮沢さんは、全権団の一人、池田勇人さんの秘書官でした。
みなさんは毎日、時間になるとバスで会場のオペラハウスに向かいます。 代表団が出かけると、私はダイニング・ルームを片付けたり、部屋をまわって洗濯物をリストに書き込んで出したりしたあと、スイートの部屋に備えつけてあるテレビで会場の模様をみていたのです。
9月8日、調印が終わると、外務省の肝煎りでシャンペンが抜かれました。そのパーティの席で、吉田茂さんや、かねて存じ上げていた白洲次郎さんなどに「君、何しとる」と声をかけられました。訳を話すと「ご苦労さん」と労をねぎらってくださいました。いい想い出です。
1958年夏、ネブラスカ州へのAFS高校留学から帰国した私は「まるで別人」と祖父母を仰天させたらしい。1年で10キロ太って面変わりしていたばかりか、祖父の反対を押して東京の大学に進学すると言い張ったのだから。
年間で牛1頭分の肉を購入するという受入家庭で、弁護士の米国での父は夕飯どき必ず帰宅して家長席に着き、5児に一日の出来事を順ぐりに報告させる。皿洗いや外出をめぐる姉弟ゲンカの言い分をじっくりと聞き、ときに挑発したりからかったりの末、裁定を下す。丸く収めるつもりで年長の私が損な役を買って出ようものなら、父は必ず怒鳴った。“Speak up, Yuki!”キミは自分の意見を言え。議論はそれからだ、と。英語力以前の、心の動きようを指摘され、目の醒める思いがした。
あの1年がなければ、就職難の逆風のなか出版社に入る執念も生まれていなかったにちがいない。
あれから半世紀近く、はたして日本人は十分にSpeak-upするようになっただろうか?
アメリカの人々に感謝の気持ちを直接伝えつつ、アメリカをフレッシュな形で見つめ直したいという思いで申し込みました。
戦時中仰ぎ見たB-29の銀色に輝く機体には目を見張りました。戦後、その強大な産業力、経済力をオープン・リールのテレコやシアーズの大カタログを持って占領地にやってきたワシントンハイツに住む軍人家族の生活ぶりを目のあたりにしただけで、日本がなぜ敗れたかがわかりま した。国力が圧倒的に違ったのです。なぜそんなに違うのかを探りたい、そう思いました。
1957年フルブライト奨学金でニューヨークのマンハッタン・カレッジに入り、アメリカにはマネジメントという学問があることを知り、ピーター・F・ドラッカーを師として経営学を学んできました。日本へ帰ってからは、通訳、翻訳、コーディネーターなどの役割を果たしながら、アメリカの経営のあり方を日本に移植するお手伝いをしてきたのです。1970年代になって日本の経済力が盛んになると、日本の経営のあり方をアメリカへ伝える仕事もして、ビジネス・マネジメント研究をめぐる受信と発信の双方にたずさわってきました。
そして21世紀、日米がどういう形で向かい合うか、競争相手であると同時にパートナーであるにはどうあればよいかという大きな課題を抱えてキャラバンに参加したいと思ったのです。
すでにアメリカは、いわゆる“ニューエコノミー”の時代に入りつつあります。これに基づく新しいマネジメントの実態を見定めるため、直接アメリカの人々と討論したいのです。私は日本の復元力について話したいと考えています。またアジア(中国)を含めた関係のあり方も模索したいですね。
成熟した正気の大人としてアメリカの人々と大いに知的格闘技をしてみたい。そしてアメリカで新しい発見をしたいのです。まだまだ汲めど尽きせぬ国です、アメリカは。
○… UCLAのOBである旧知の村井勝氏に、同校日本同窓会の会長を紹介して欲しいと頼んだところ、「私がその会長です。」とのこと。お蔭で募金活動に格別のご協力をいただくことになった。
実は1958年、村井家にはAFSが招へいした米高校生の受け入れ家庭になってもらった。その後、村井氏はUCLAに留学したときは、そのアメリカン・ブラザーの実家に迎え入れられている。
現バージニア大ビル・クワント教授がそのアメリカン・ブラザー。中近東問題の専門家としても米政府の政策立案に参画。40年以上も家族ぐるみの交流が続いている。
連絡先:A50事業関連連絡事務所 (株)デシジョンシステム気付 東京都港区赤坂6-8-9氷川坂ビル Tel.03-3589-0321 |