敗戦により、国際社会から孤立した日本が、再び独立国として、国際社会に復帰することを認められたサンフランシスコ平和条約から、50年の歳月が経とうとしている。この間の50年、日本は国民的レベルで、国の建て直し、企業の再生、生活の改善に努力してきました。 日本の歴史において、この50年ほど、国家国民が一丸となって、努力した時代はなかったでありましょう。その50年、日本はアメリカと強い同盟関係を結び、繁栄を築き上げたのでした。その間に日本とアメリカの間には、貿易摩擦や文化の違いによる誤解から生じる摩擦等々、多くの対立がありましたが、両国政府及び国民の努力により、概ね両国の関係は友好的に保たれてまいりました。
今回、50年前にサンフランシスコ平和条約を締結したのを思い起こし、アメリカ国民に感謝の意を、単なる言葉ではなく、多くの日本人が参加し、行動で示そうという主旨で、「A50」というアクションプランが民間から持ち上がりました。50年前のことを何もいまさら、という意見もあろうかと思いますが、戦後を生きた日本人、企業も、政府も等しく、これを我がこととして、アメリカに感謝の気持ちを伝えることは、日本の末永い友好のために、時宣を得たものと確信しております。
私が幼いころ思い描いていたアメリカ像。それは祖父母が繰り返し語る原爆投下直後の様子から生まれた「敵としてのアメリカ」像であり、歴史の授業で教えられた「一般市民への攻撃を行い、多大な後遺症をもたらしたアメリカ」像であった。しかし高校2年生の夏から一年間米国へ留学し、生のアメリカに触れて、私は新たなアメリカ像を発見することができた。
ある授業で「原爆投下」についてのデイベートを行ったときのことである。感情論のみを主張していた私に対し、米国の学生は当時の米国の政策と日本の政策について分析しつつ、「なぜ原爆投下が一概に悪いと言えないのか」という理由を述べた。そして同時に彼らはヒロシマで何が話され、どういった経験をした人がいるのか、と興味深そうに聞いてくれた。
それ以降、米国への否定的な感情は消え、米国について、また日本と米国との関係について詳しく学んでいきたいと強く思った。これが現在、大学で米国研究を行い、第52回日米学生会議の実行委員として活動している大きな理由である。99年夏、日米学生会議はヒロシマの地を訪問し、2000年夏にはパールハーバーを訪問した。こうして相互の歴史を知り、相互が持つ感情を共有することこそ両国の関係を良好な状態で維持するのに必要不可欠であると実感している。卒業し社会人になっても、一個人として両国の良好な関係維持のため、一役を担っていけるようがんばっていきたい。
○ …過日ボランティアの小田保光さんが鎌倉長谷の大仏敷地の一隅に「サンフランシスコ平和条約締結40周年記念」と銘を打ったジャヤワルデネ前スリランカ大統領顕彰碑を見つけた。そこで事務局の佐藤加恵さんが詳しく調べに出かけ、こんなことが分かった。
1951年の対日講和会議で、スリランカ(当時セイロン)のジャヤワルデネ大統領は 日本への寛容と愛情を説き、賠償請求を放棄すると宣言した。 さらにアジアの将来には日本の独立と自由が欠かせないと日本分割案に真っ向から反対した。当時、日本国民はこの演説に勇気付けられたので、同大統領を称えて、感謝と報恩のため91年に石碑が建てられた。当時の住職の弟さんは、現国連大使の佐藤行雄氏とのことである。
○ …総務省は、2001年の特殊切手として、サンフランシスコ平和条約50周年の記念切手を発行する、と発表した。(藤)
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