1951年9月8日のサンフランシスコ平和条約から50年になる来年にあわせて、記念事業を計画している 「A50事業実行委員会」は10月20日夕方、東京・虎ノ門のホテルオークラで三百数十人の政、財界人、有識者が出席して、 キックオフ・パーティを開きました。 会場には、サンフランシスコ平和条約調印式に当時の池田勇人蔵相秘書官として参加した宮澤喜一蔵相 も会費1万円を払って乾杯の音頭をとりました。国際的に著名なデザイナー森英恵さん、労働界のリーダー 鷲尾悦也連合会長、日米学生会議代表の鍵田亜基さんといった幅広いメンバーが出席されました。
右から宮沢大蔵大臣、大河原会長、小林富士ゼロックス会長
橋本富士銀行会長 (c)THE JAPAN TIMES 三浦義昭
大河原良雄会長(元駐米大使)は、次のようなあいさつを述べ、5億円を目標とする募金協力も呼びかけ ました。 当日の様子は産経、毎日、ジャパンタイムズに掲載されました。 アメリカでも、北カリフォルニア日本協会を中心に、来年9月6〜7日に日米関係を考えるシンポジウムを開き、 日本と同日の8日には記念式典を開催するそうです。
このA50事業は戦後アメリカから受けたさまざまな支援と協力に対し感謝の気持ちを表明し、そしてこれからの50年も日米両国に確かなゆるぎない信頼関係を築いて行くのを目的とする事業であります。
戦争直後、戦災に打ちひしがれ疲弊のどん底にあった時、米国民が差しのべてくれた食糧、衣料、医療などの人道的援助をはじめ、民主主義の導入、産業の復興、さらには開放的な市場の提供など、米国の支援は日本の新しい出発と発展に欠かせないものでありました。 我が国はこれを基礎として戦後の復興を遂げ今日の日本を築き上げて参りました。
挨拶する大河原会長
新世紀の最初の年となる2001年9月8日は、サンフランシスコ平和条約の締結によって、日本が再び世界の仲間入りを認められてから50年目に当たります。われわれはこれを機として、日米間の信頼関係を一層揺るぎないものにしたいと考えております。
奨学金、出版、米国キャラバン、記念式典といった四つの活動を行なうため、企業と個人のご寄付を歓迎しております。これから一年、みなさまのお力添えを願っております。
飯久保廣嗣(いいくぼ ひろつぐ1934年生デシジョンシステム社長)
人格形成で異文化に触れるのは役立ちます。1953年(昭和28年)にインディアナ州のデポーという私立大学に奨学金をもらって渡米しました。あの時ほど、自分が日本人であるのを自覚したことはありません。今になって考えると、アメリカ人にも日本の留学生がいて、異文化があるのが分かってお役に立てただろうと思います。
当時の新聞をくると、日本の食糧難を助けようとアメリカ小麦一千トンの第一船は終戦の翌年1月26日にマニラから入港したんですね。恩知らず、といわれたくない。礼節を知る日本を保ちたい。そんな思いで数年前、故島内敏郎さん(外交官)や小林陽太郎さん(財界人)といった人々と話し合ったのがきっかけでA50ができました。個人の力で日米同盟の強化なんてできるものではない。しかし志あるところ、道あり、といいます。みなさんで、日米の絆を強めて、次の世代に渡そうではありませんか。この事業のリーダーシップをとっていただいているのは大河原元駐米大使です。
‥‥・キックオフ・パーティの数日後、ある企業の方から電話をいただいた。パーティに出るつもりだったが、当日は急用のため欠席。ついては、会費の1万円を払うとのお申し出だった。
個人募金の受け皿として開設したばかりの郵便振替口座への入金第1号となった。パーティには70名近くがお見えにならず、大幅な見込み外れだったので、事務局一同大感激。ありがとうございました。
‥‥・パーティ会費の1万円は高いか安いかはさておいて、ホテルオークラには格別のサービスをいただいた。キッコーマンとメルシャンには、A50のラベルを特別に作っていただき、それを貼った白と赤のワイン、サントリーからはウィスキーを、それぞれ寄贈していただいた。各テーブル上に、花の代わりにワインボトルを2本飾ったところ、あちこちでA50の話に花が咲いていた。
パーティ会場受付で会費を払う宮沢蔵相
連絡先:A50事業関連連絡事務所 (株)デシジョンシステム気付 東京都港区赤坂6-8-9氷川坂ビル Tel.03-3589-0321 |