サンフランシスコ平和条約締結50周年に思う

A50事業実行委員会事務局

1.歴史の一コマを正確に認識しよう

「戦後」を体験した方々は「ララ物資・ケア物資」についてそれぞれに思い出があり、「飽食の時代」に育った方には実感が伴わないことと思われるでしょう。それぞれの世代がその生活体験に基いてひとつの事象に異なった見解や印象をもつのは当然であるが、最近の論調に戦後日本への米国の対応について歪んだ記述が散見され、50年という年月での記憶の薄れとともに、誤った認識の基になるのではと懸念される。平和への貢献を目指すには、これらのことについて事実関係を明確にしておくことがまず大切である。

ガリオア・エロア基金などの戦後日本の復興に寄せられた援助は、総額約18億ドル、現在の貨幣価値に換算すると約12兆円の巨額に達する。 「これらは戦争が終結して、米国が余った膨大な軍事予算や余剰農産物をまわしてきただけのもの」との声があるが、果たしてそうであろうか。
 ガリオア(占領地域救済政府基金)は占領地の飢え・病気等を除くために食糧・肥料・医薬品・石油などを供給し、エロア(占領地域経済復興基金)は占領地の経済復興のために工業用原料や資本財を供給した。敗戦により鉱工業生産が10年前の3割近くに落ち込み、米国の僅か4%程度のGNPにまで低落したわが国では、これらの援助は、例えば昭和21年にはわが国のGNPの実に12.8%にも達し、戦後の復興に大きなウエイトを占め、政府関係者が「ガリオア・エロアなかりせば」と回顧するのは当然のことである。 これらの援助は、当時の国際情勢の変化から日本の重要性が高まり、強化されたという米国の戦略的側面もあるが、政府資金を提供するに当たっては、「昨日まで肉親や友人を戦火にさらした日本に何で援助するのか」との米国内の根強い反対を抑えて実行され、日本人の叡智、勤勉さと相俟って、経済復興、インフラの整備等に顕著な成果を挙げた。

敗戦の翌年には小麦を満載した貨物船が到着し、さらに、サンフランシスコ在住の浅野七之助氏やローズ女史らの献身的な尽力により「飢餓にあえぐ日本の子供たちを救おう」と集めた市民レベルの善意の品々がララ物資として到着した。これには食料品、医薬品、日用品などに加えて、子供たちへの牛乳の代わりにと、生きた山羊までが送られてきた。 一方、戦前に日本に在住していた多数のキリスト教宣教師が、戦後再び日本を訪れて見聞した惨状を米国の教会関係者に詳しく伝えた結果、全米の教会が一丸となって「ゴール 1,000万ドル、難民救済」の大募金キャンペーンを呼び掛け、高校や大学でも週に一度昼食をぬいて、そのお金を“日本の子供たちへの募金に回す運動”が大々的に行われた。

ガリオアによる援助物資は米11万トン、小麦500万トン、塩52万トン、砂糖80万トン、缶詰16万トン、肥料300万トンなどに加え、牛など1万頭も贈られた。さらに、市民レベルでの善意の賜物はララ物資、ケア物資として総額5,000万ドル(現在の貨幣価値で約4,000億円)相当の物資が、学童、青少年を対象に無償配付された。この中には給食用の脱脂粉乳が含まれており、「ララ物資」というと、まずこの脱脂粉乳を思い浮かべる人が多い。

「講和条約『五十年記念』の卑屈さ」(雑誌「選択」2001年2月号)と題する一文によると、「ベビーブーム以上の世代は、とっさに給食の脱脂粉乳を思い浮かべる。あのなんともいえぬ生ぬるい匂いと舌触り。とても飲めた代物ではなかったが、今になってみれば、握り合う手のステンシルマークがついた大きな厚紙缶が瞼に浮かぶばかりだ。脱脂粉乳が本来家畜の飼料であったとしても、戦後日本の幼児たちが『ガリオア・エロアのおかげで飢餓を免れた』と言われれば、これは素直に頷くしかない。」と記されている。  この文中には、ガリオア・エロア資金もララ物資、ケア物資も混同し、しかもこれらの 膨大な援助が戦後日本の復興にいかに役立ったかなどについての検証がなされていない。しかも米国の市民レベルでの善意の賜物を、単に脱脂粉乳の例を挙げて、「家畜飼料を回してきた」との言葉に集約してしまうのは如何なものであろうか。

 

2.戦後復興援助に対する謝意

これらの資金援助、救援物資のほかにも、民主主義の定着、女性の復権、さらには技術移転、生産性などの経済ミッション受け入れなどによる近代化の促進、日本製品に対する広大な市場の開放などなど、多方面にわたって数々の援助を米国から受けたが、これらのことは、世界の歴史上、過去に類例のない寛容な占領政策によるものである。

新渡戸稲造をはじめ、戦前にも民主主義を日本に醸成しようとした方々がおり、超国家主義・軍国主義が敗戦に伴い排除されたことにより、この土壌の上に早々と民主主義を定着できた。労働界においても米国の支援によりいち早く労働三法が制定され、日本の民主主義確立に貢献し、2万人余りの組合幹部が労働界から渡米し、交流した。 また、日常生活に不可欠な各種の消費財や資本財などの産業分野において、米国からの技術導入により生産を画期的に発展させることができ、同時に広大な市場開放を受けて輸出を拡大でき、国際社会に復帰した日本が早々と今日の繁栄を築くことができた。

この認識の上に立てば、戦後日本に寄せられた数々の援助に謝意を表明することは当然のことではなかろうか。米国のマーシャルプランにより復興援助を受けたドイツもイタリアも戦後の区切りの年に約300億円に相当するジャーマン・マーシャル・ファンドを設立したり、記念碑を建てることによって、それぞれ援助に対する感謝を明確に表明している。その他、韓国、クエートなどもそれぞれの節目において感謝を表している。 ところが復興援助を受けて世界第二の経済大国になったわが国としては、いまだかって明瞭な「感謝」を表明していないのは如何なものであろうか。本来、礼節を尊ぶ国民性と言われてきた日本人自身が、これでは「ungrateful(恩知らず、不愉快な…)」と国際社会から指摘を受ける潮流を自ら惹起していることになりはしないだろうか。

 

3.「A50」のこころ

8年前に発足した「A50」は、数十回にわたる準備会議を重ねた結果、「戦後アメリカから受けた膨大な援助に対して市民レベルで『感謝』を明確に表明する。その時期としては、サンフランシスコ平和条約締結50周年に当たる2001年をピークとして事業を展開してゆく」ことが決まった。そして「感謝」を明確に表明した上で、次の50年に向けて、国際社会に通用する態度で「国益」を明瞭に主張してゆく。このために、ワシントンなどの中央のみでなく、でき得れば全米50州を巡って、市民レベルでの対話を通じてこの意思を伝達することを目標とした。 すなわち、「A50」のAは感謝(アプリシエーション)とアメリカとを意味し、50は戦後国際社会に復帰してから50年目に当たる2001年に 次なる50年を目指すと共に、全米50州を意味する。

ときあたかも、米国側でもサンフランシスコ平和条約締結50周年記念式典が計画されており、本年9月8日に、東京とサンフランシスコで呼応して記念式典を行い、その一部として復興援助に感謝するかのごとく誤解している向き(たとえば、2001年1月4日付け 日本経済新聞)もあるが、以上に述べた経緯からも明らかなように、米国側が催す式典と A50事業とは本質的に相違する。

A50事業を展開するに当たって、「今なぜ米国に…」との意見を聞くことがある。その方々には、「今回を逃したら、未来永劫に感謝を表明する機会はなくなるのでは…」と問いたい。また「なぜ好況に沸いている米国に」との問いには、平和条約締結前後において、どこの国が日本の分割を要求し、どこの国が国家体制の変革を要求したかをつぶさに検証し、もし日本が分割された場合には、果たして今日の繁栄が得られたであろうかを分析すれば、自ずから明らかであろう。

 

4.おわりに

A50事業としては、サンフランシスコ平和条約締結後の50年を検証し、共通の認識をもつために、まず日米両国の有識者がそれぞれ書き下ろした「日米戦後史」を出版する。そして本年9月8日に「感謝」の式典を催すと共に、キャラバンチームを編成して米国各地を歴訪してこの意を伝達し、これからの50年にわたる日米関係について市民レベルで意見交換を行う。さらに、A50−フルブライト奨学金制度を創設し、異文化交流の場を醸成する。これらの諸事業を遂行することにより、国際社会に判りやすい態度で相互理解を深め、グローバル化の進むこれからの50年における新しい日米関係の形成に資することを目的としている。

現在、米国内で「戦時捕虜に対する補償問題」が一部の人々により蒸し返されているが、これは本質的に米国内における法体系上の問題として、米国自身が処理すべきことである。一方、日本側としては、まず戦後復興援助に対して「感謝」を明確に表明して、日本人の品位と尊厳を確立することが先決である。その上で、この補償問題についても避けることなく、その道義的責務に対しての対応を堂々と表明する。これなくして、千万言を重ねて も、相手の琴線にふれることはないであろう。(2001・2・16 YO)




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