第二次世界大戦後の日本

第二次世界大戦により、日本では、310万人の生命が失われ、1,000万人以上もの人々が家を失ったといわれます。主要な都市はほとんど焦土と化し、街の至る所に焼け爛れたトタン板を使った急造のバラックが散見されました。

 

産業は疲弊し、1946年の鉱工業生産指数は10年前の31%にまで落ち込んでしまいました。そのため1946年11月には石炭不足のため旅客列車(当時は蒸気機関車駆動)を16%削減、さらに翌年1月から4月までの間は、急行列車を全廃する事態となりました。

製造工業の生産指数も52%にまで低下し、日本のGNPは米国の僅か4%程度にまで低落してしまいました。

その結果、365万人の在外軍人を含み、総計643万人にも及ぶ海外からの引き揚げ者(厚生省調べによる)を収容できるような産業の状態ではなく、街には戦災孤児や失業者が溢れていました。

この頃(1945年当時)、上野駅では、1日最高6人の餓死者が続出し、1945年11月1日には、東京の日比谷公園で、餓死対策国民大会が開催されました。そして1946年5月12日には、東京世田谷区で「米ヨコセ」区民大会が開かれ、宮城へデモ行進し、一部の人々は坂下門までなだれ込む事件が発生しました。さらにその1週間後には、飯米獲得人民大会(食糧メーデー)が大規模に開催され、大会代表が首相官邸に座り込みをかけました。

 

腹を空かした子供たちが、街中で、通りすがりの進駐軍兵士たちにガムやチョコレートなどをねだる光景もあちらこちらで見られました。

こうした極悪の食糧事情を背景として、特に都市部の子供たちの体格が痛ましいほどに悪くなりました。文部省の調査によると、戦前(1937年)と戦後(1945年)の7歳から13歳の児童の平均体位を比較すると、田舎では若干の減少に止まっているが、都市部では、男女ともに、身長も体重も大幅に減少し、例えば小学校6年の女児は、体重で2.2kg、身長で4.4cmも萎縮してしまいました。

同時に、庶民の生活は、猛烈なインフレーションに悩まされました。消費者米価は、政府の厳しい管理下にあるにかかわらず、敗戦から2年後の1947年には戦前の46倍になり、1950年には160倍にも達しました。また東京の小売物価指数は、戦後5年の間に250倍近くにもなりました。


(これらのことは、還暦を過ぎた高齢者の方々には、昨日の出来事のように鮮烈に記憶しておられることでしょう。一方、若い方々にとっては、聞いたことはあるものの、現在の生活環境から考えると、遠くかけ離れた歴史上の出来事と感ぜられるでしょう。しかし、現実にこのようなことが身近な生活にあったことを頭に入れられて、このホームページに接して頂きたく思います。)




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