サンフランシスコ平和条約

 

アメリカ、イギリス両国共同の招請により、1951年9月4日から8日まで日本を含む52ヶ国が参加してサンフランシスコにおいて対日平和条約締結のための国際会議が開かれ、日本は全権として吉田茂首相を派遣しました。  

会議はアメリカ原案を中心に審議し、ソ連はこれと対立して原案の修正を提唱したが、いれられず、結局、ソ連、ポーランド、チェコスロバキアを除く49ヶ国によってサンフランシスコ平和条約として署名されました。なおインド、ビルマ、ユーゴスラビアは招請を受けたが参加しませんでした。  

この条約により、日本は、朝鮮の独立を認め、台湾、澎湖諸島、千島列島、南樺太、新南群島(南沙群島)、西沙群島に対する一切の権利および請求権を放棄し、南太平洋の旧委任統治諸島をアメリカを施政権者とする信託統治のもとに置くという、国連安全保障理事会で成立した協定を承認しました。また沖縄諸島、小笠原諸島については、アメリカを唯一の施政権者とする信託統治のもとに置く提案に同意し、信託統治が行われるまでは、アメリカが行政、立法、司法上の一切の権力を行使することとなりました。   

賠償については、「日本は資源が乏しいので、賠償は役務で行なうべきである」との原則的取り決めだけがなされ、具体的には以後の交渉に残されました。しかしながら、個別交渉の結果、フィリッピン、インドネシア、ベトナム、ビルマに対する賠償協定では、工場施設、機械などの現物賠償が主で、役務賠償は従となりました。

また、日本は、国連憲章に定める個別的および集団的自衛権をもつことが認められ、これに基づいて日米安全保障条約が結ばれました。この平和条約と日米安全保障条約は翌1952年4月28日に発効し、日本は主権を回復し、国際社会に正式に復帰することができました。

 

<条約締結に至る経緯>   

第二次世界大戦終了後、日本は連合国の占領・管理下に置かれ、1945〜47年には、日本の民主化と非軍国主義化のための施策が積極的に進められました。1947年3月、米国国防省作業班は、日本の軍国主義復活阻止を基本方針とする最初の対日平和条約草案を作成し、同年7月16日、米国は、極東委員会を構成する10ヶ国(英・ソ連・中国・仏・加・豪・オランダ・ニュージーランド・インドおよびフィリッピン)に対日講和予備会議を提唱しましたが、ソ連は不参加を言明しました。   

その後、米ソ両陣営の対立による冷戦の進展を反映して1947〜50年には、総司令部(GHQ)は反共政策を推進しながら、日本の復興を積極的に援助する方針に転換しました。そして朝鮮戦争の勃発(1950年)以来、米国は日本を独立させた上で日米友好関係を確立する方針をとるようになり、対日平和条約の早期締結を決意し、1950年4月6日、時の米大統領トルーマンはジョン・フォスター・ダレスを対日講和担当の国務省顧問に任命し、各国と折衝して平和条約の草案をまとめました。  

連合国の中では、米国とソ連との間に深刻な意見の食い違いがあったばかりか、アジア諸国の間には賠償などにつき強硬な主張が多くありました。またサンフランシスコ会議に中華人民共和国政府を招請すべきか、台湾にある中華民国政府を招くべきかについては、連合国の間でも意見が大きく分かれたため、いずれの中国政府と平和条約を結ぶべきかは、日本の選択にゆだねることになりました。   

特にソ連は、1945年8月16日、スターリン首相がソ連軍による北海道北部の占領を公式に提案し、これを米大統領トル−マンが拒否したことなどから、米ソは鋭く対立し、1947年3月、米英仏ソ4ヶ国外相会談での対ドイツ・オーストリア講和問題討議でも不一致のまま決裂しました。

そしてソ連は、1951年5月7日、米国が作成した対日平和条約草案に対する回答覚書で、米英中ソ4ヶ国会議開催を要求し、さらに6月10日、第2次覚書で全面講和など3原則を提示しました。

さらに、サンフランシスコ講和会議の席上、ソ連は、条約修正案を提出して中国代表の参加を要求し、拒否されると、チェコおよびポーランドと共に、「この平和条約は新しい戦争のための条約である」として、調印を拒否しました。

一方、中国は、1949年1月14日、毛沢東が和平8条件として、戦犯処罰・官僚資本没収・土地改革・売国条約破棄・民主連合政府樹立などを提示しており、サンフランシスコ講和会議に対しても周恩来首相は、「中華人民共和国不参加の対日平和条約は非合法・無効である」と声明を発表しました。その後、日本は、中華民国、インドおよびビルマとは個別に平和条約を締結し、ソ連、チェコスロバキアおよびポーランドとは共同宣言、協定、議定書などによって国交を回復しました。中華民国との平和条約は、国連の決議に基づき、1972年9月に中止し、日中共同声明により中華人民共和国との戦争集結を宣言し、国交を回復しました。

 

<そのとき、日本国内の世論は…>   

1949年11月1日、アメリカ国務省当局筋が「対日講和条約について検討中」と言明したことが発端となって講和論争が一気に活発化しました。   即ち、ソ連その他の共産圏諸国を含めた全連合国との間に平和条約を結ぶべきだとする全面講和論と、これらを除いた諸国との間との平和条約でもやむをえないとする部分講和(多数講和あるいは単独講和)論とが対立し、国内世論を二分しました。

1949年11月11日、吉田首相は、「単独講和でも全面講和に導く一つの途であるならば、喜んで応ずる」と議会で答弁し、また1951年2月11日、「米国との安全保障取り決めを歓迎し、自衛の責任を認識する」との声明を発表するに及んで講和および安保論争は一層活発になりました。

そして、1950年5月3日、吉田首相は、東大総長・南原繁の全面講和論を「曲学阿世」(学問を歪曲し、世論に媚びへつらうの意)の論と非難、これに対して南原総長は「学問への権力的強圧」と反論しました。  

また1950年5月20日付け朝日新聞は「講和に対する態度」と題する社説で、部分講和を戒め、永世中立・非武装の立場を表明。さらに雑誌「世界」の1951年10月号は「講和問題」を特集し、山川均の「非武装憲法の擁護」などの論文により、全面講和を厳しく主張しました。  

一方、社会党中央委員会は、1949年12月4日、講和問題に対する一般的態度として、@全面講和、A中立堅持、B軍事基地反対の平和3原則を決定。そして1951年10月24日、臨時党大会で講和・安保両条約に対する態度を巡り、左派(委員長・鈴木茂三郎)と右派(書記長・浅沼稲次郎)とが激しく対立し、両党に分裂してしまいました。

また総評は1951年3月10日の大会で講和をめぐり民同左右が対立したが、再軍備反対、全面講和、中立堅持、軍事基地反対の平和4原則を決議。総評大会で敗れた右派の滝田実(全繊)らは民主労働運動研究会を結成し、総評は岩井章(国鉄)太田薫(合化)らの左派による労働者同志会とに分裂しました。そして1951年9月1日、総評は、宗教者平和運動協議会などと提携して、単独講和反対平和国民大会を開催しました。

また、1951年1月29日、経団連、日経連、経済同友会、などの経済8団体は、来日中のダレス特使に講和に対する要望を提出し、多数講和・集団安全保障・経済的自立を要請しました。  

これらの経緯を経て、1951年10月26日、衆議院において、講和は賛成307票対反対47票で、安保は289対71でそれぞれ承認し、参議院も11月18日にそれぞれ可決しました。

(以上は、「対日平和条約」毎日新聞社刊行および国際法学会編「平和条約の総合研究」有斐閣刊行を文献として、大畑篤四郎氏がまとめたもの、および岩波書店発行の「近代日本総合年表」第三版などによる)

 



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